RYUSO HISTORY

2018年01月12日

RYUSO HISTORY#5 キュウリ事件①

手間請負の職人として頑張っていた頃、独立してから2年ほどたっていた頃でしょうか。仕事をいただいてた会社から連絡があり、その日は午前中~15時ころには1件の現場が完了する日だったんですが、それが終わったら違う現場に行ってくれ!ということでした。

その現場は数年前に建った家らしかったですが、雨漏りか何かでクレームの現場だったようです。会社では人を手配できなかったのか、忘れていたのか急に私に言うのはいいのですが、場所も離れているので終わらせてから向かっても早くても14時くらいにはなってしまいます。そんな時間に到着して大丈夫ですか?終わりますか?と確認しましたがとりあえず行ってくれということなので引き受けました。もちろんその雨漏りの現場の外壁工事は私がしたものではありません。

到着すると何やら不穏な空気。。元請工務店さんの監督を施主さんの奥さんが外に立っていますが談笑しているような雰囲気は一切ありません。やりにくいな~と感じながらもまずは監督にどこを施工したらいいか聞くと結構な範囲でしたので、大急ぎで道具などを準備して既存外壁材の撤去を開始しました。

日も暮れてからも照明をあて、何とか完了することができましたが後かたづけをしていると奥さんが何やら騒ぎ出しました。外壁とフェンスの間に置いていた植木鉢のキュウリの枝が折れている!どうしてくれるんだ!ということでした。フェンス沿いにはいくつかの植木鉢がありましたが、私たちは外壁を施工するためその植木鉢と外壁の間を何度も通っていましたが、その中のキュウリの枝が通路側に少しはみ出ていたため、何度も通っているうちにその枝が折れ曲がっていたのでした。

その時の私はまだ未熟でしたので、そんなに大きなことをしでかしたつもりは無く、もっと注意してやれば良かったのですが時間もギリギリで慌てていたもので申し訳ありませんでした。と謝罪し、しょうがないわね。と言っていただけると思っていたら、それで話は済まず大事になり、私の人生で1番とも言える屈辱を受ける日となってしまったのです。

そもそもが何をするかもわからず現場に差し向けられ、時間もないということで、クレーム案件であるとか到着時の不穏な空気を意識するのが足らなかったのです。

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きゅうり 


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2017年12月23日

RYUSO HISTORY#4 お金がない!

T君が来てくれるようになってからは、これまでと違いお金のことも計算しながら仕事をしなくてはいけなくなりました。仕事を請け負っていたわけですから元請け会社の締支払日に準じて請求し、お金をいただいているので締日までに2人分の件数を完了させないとお金が足りません。

T君には必ず毎月給料を支払わないといけませんので40~50万円しか売り上げれなかった時はほとんど折半状態、さらに毎月かかる経費は道具代、燃料費、高速代、その他経費が8万円はかかっていましたので、自分の家に入れれるお金は20万円以下になることも度々ありました。

それでも翌月に立て替え分のお金が少し戻ったり、カードキャッシングでお金を借りたりしてしのいでいました。T君が仕事を早く覚えてバリバリになってくれれば、こういう状況は無くなるはずだと耐えていましたね。

それから半年ほどして、たまに現場で顔を合わせる仲の良かった職人さんが、今のとこを辞めてシロちゃんとこ(私です)で一緒にやってもいいけどな~と言ってくれたので、喜んで来てもらうことにしました。お金も無いので自分の車両も出してもらって何とか3人態勢となりました。しかし商売とは不思議なものでそれなりに仕事があっても、手間請けのような利益が少ない(ほとんどが人件費)仕事では一向に儲からない、、というか余計にお金が厳しくなりました。

従業員より給料が少ない月なんて頻繁にありました。そして一番堪えたのは各30~40万円の給料を職人2人に払うため、給料袋にお金を入れていくと残ったお金が9万円だった時です。それなりに忙しくやっていた時期だったので、給料日は従業員を労いたい気持ちがありました。そして一度妻に渡した9万円のうち5万円を持って皆を食事と2次会に連れて行きました。妻は親方がこれだけしかお金が無いのにそんな飲みに連れて行ったりしなくていい!と一度は言いましたが、今月お金が無いのと、あいつらが頑張ってくれているのは別の話だからと説明すると理解してくれました。

そしてその月のある日、家に帰ると夕食はざるそばだけ、、私は妻に昨夜もざるそばだったことを伝え不満を言うと、「何言ってんの。お金無いねんからしょうがないやん。明日もざるそばやで!」と笑顔で言われました。これが私がよく覚えている「ざるそば3ナイツ」です。笑

そんな状態ですので、カードキャッシングの返済に充てるお金がない時もあって、カード会社から着信があると私は電話も出ずに、何て答えよう。いつ払うと言えばいいんだろう。などグチグチと考えていました。その時も妻が「無いもんは無いねんからしょうがないやん」と私の代わりに電話に出て、今お金無いんで来月その分も払いますから~ はい~」と電話を終わらせてしましました。こいつすげ~なって思ったのと、自分が生真面目な小心者であることに気付かされました。笑

こういった生活を3年ほど続けていましたから、カードの借金も200.300万は超えていたように記憶しています。普通にやってたら返せませんよね!なので前に進むほかありません!笑 しかし今思いますと、その後の成長時期にこの時の2人の従業員は言葉にできないほど活躍をしてくれたんです。

今、個人で職人の親方をされている人で成長について悩んでいる人がいるとすれば、まずは親方がリスクを取り、損をしても従業員の雇用を確保する覚悟を持てば、何か変わっていくじゃないかとアドバイスさせていただきます。。とはいうもののそれ以降も苦労は続きますし、上手くいかないことばかりです。。泣

ということで前に進むために、シロタ建装は手間工事だけではなく、材料も仕入れて材工で請負をしていく(していくしか道がない??)方向に進んでいったのです。


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自己写真


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2017年12月13日

RYUSO HISTORY#3 今思えば笑えることも

若くして独立、そして結婚し、更には人を雇うこととなったわけですが、その時の私はその後ずっと続いていく経営者としての苦労は知る由もありませんでした。しかし今思えば笑える話もいくつかあるのでそれを先に書きたいと思います。

初めて人を雇うといってもやり方がわかりません。何で知ったか覚えていませんが、その頃出始めの求人フリーペーパ「タウンワーク」に出すことになりました。もちろん事務所もありませんでしたので自宅の賃貸マンションが住所ですし、自宅の電話が連絡先です。なぜか求人を出す方の自分が緊張していたのを覚えています。

そして2~3件の問合せがあり、こちらから再度連絡をして面接まで進んだ応募者は1名だけでした。その1名がその後10年以上、私を支えてくれたTくんなわけですが、その運命的な面接はなんと近所の「和食さと」で行うことにしました。なんか自宅よりそっちの方がいいと思ったかは自分でも定かではないのですが、仕事が終わってからの19時とか19時半に待ち合わせしたように思います。

そして面接の日、仕事が終わっていた私はいつものように帰って少々晩酌していたので(面接があるにも関わらず!?)これも何故だか不思議ですが「ママチャリ」で約束していた和食さとに向かいました。そしてふらふらと辿り着いてTくんと出会ったのです。しかしお店に入ろうとするとなんと満席、初対面の面接でお名前を記載して2人で待ってるのもおかしいとさすがの私も思ったのでしょう。Tくんに「満席だから自宅に行って面接しようか」と言って2人で自宅に向かうことになりました。(それなら初めから自宅で良かったのでは、、、)

これは曖昧な記憶ですが、その道中でTくんにママチャリの後ろに「乗る??」って聞いたような気もします。笑(自転車の2人乗りはダメです)
そうして自宅に戻り、コタツにTくんと座り、やり方もわからない面接をしました。実際には面接というより雑談でしたね。ひと通りの話が済むと自宅にいた嫁に瓶ビールを頼むとTくんに「飲む??」と進めたことを覚えています。ほんと今思えばなんという面接や!って思いますが、無知とは怖いもので本当にそんな面接だったのです。笑

そして最後にTくんに「そしたら明日からでもウチに来る??」と聞いたら「はい。よろしくお願いします。」、、、双方いろいろおかしいですね。そうしてTくんとは十数年の付き合いが始まったのです。笑

そしてもうひとつ、リュウソークリエイト株式会社の前身はシロタ建装だったとどこでも説明しているのですが、実は個人事業を始めた1年目だけ屋号は違いました。1年目に申告した屋号は「シロタ工業」だったのです。だから何だという話です。すいません。
シロタ工業、これはなんか違うなと思い、2年目からシロタ建装として営業していくことになったのです。

他にも創業当初は何もかも初めてで、訳の分からないことをたくさんしてきたと思います。だけど、その訳の分からないことの積み重ねをもうすぐ17年してきたことになりますね。今思えばすべてがかけがえのない思い出です!


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2017年12月07日

RYUSO HISTORY#2 背中を押してくれるもの

そうして独立する事となったのですが、それまでは親方の道具を使わせてもらって仕事をしてましたから自分の道具はありません。道具といってもすべてを揃えると20万円30万円はすぐにかかります。恥ずかしい話、その時はろくに貯金もしていませんでしたので、しょうがなくカードキャッシングで40万円ほど借り必要なものを買い揃えました。

車はなんとかローンを組んで買ったマイカーがありましたので、それをそのまま現場用に使う事にしました。今思い出しても後先考えずに始めたな~と思いますが、逆に言うとそれだけ勢いがある年代だったからこそ、そこまで悩まずに経営者の道に飛び込むことができたのだと思います。

独立するきっかけとなったのは他にもう一つあります。私の母方祖父が山口県宇部市という街で中小企業ではありますが経営者をしておりました。現役の時にはライオンズクラブ会長をはじめ、大学OBによって作られた社団法人(地域の工業会)会長を何期も務めるなど、今となって思えば尊敬できる祖父でした。(子供の時はわかっていなかったですが)その祖父が亡くなる少し前、私は祖父の元を訪ねる機会がありました。その頃はちょうどいろいろ悩みながら親方のところで働いている時でした。

その頃の祖父は何度も手術をした後で、自宅に戻ってからも鼻から何か医療用の管を通しているような状態でした。しかし祖父は私たちを街の中心部の寿司店へ夕食に連れて行ってくれました。そこでいろいろ自分の話をしていると、ずっと技術畑で生きてきた祖父は私に言いました。「建設業の現場職人という仕事も家づくりというりっぱな技術職、いつまでも人に使われていたらつまらんよ」 私は強力な後押しを受けたような気持になった事を覚えています。

「若いのにやめておけ」「失敗したらどうするんだ」祖父はそんなまわりの皆さんがよく言ってくれたアドバイスとは全く違う答えをくれたのです。もしかしたら私はそこで独立という道を決めていたのかも知れません。

話を戻しますが、独立して1年程は想像していた以上に順調に進みました。もちろん工期が無かったり納まりが難しい現場などでは本当に苦労しましたが、努力した分だけ自分に返ってくる。そんな状況が私に苦労を感じさせなかったんだと思います。そんな勢いのまま10代の頃から付き合い、私が独立してからもずっと支えてくれていた彼女と結婚致しました。そしてそれと同時に私は初めて人を雇い入れました。

それからの長い経営生活の中で最初で最後、社員数が1から2になる瞬間でした。この順調な流れのままどんどん人を増やし、いつも親方に語っていたように自分自身が成長していくぞ!!そう意気込んでいました。しかし結婚生活と人を雇用する立場となった生活は、23歳の私にとってそう簡単にいくようなものではありませんでした。私は現実を痛感したのです。


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2017年12月05日

RYUSO HISTORY#1 一歩踏み出す大切さ

私が21歳の頃、前職を辞め仕事をしていなかった時期があり、新聞折込の求人広告で単純に家から近いという事と、いくつか経験のある建設業系の仕事の中で1年程度経験のあった「外壁サイディング施工」という事で、個人でやっている親方職人さんのところにお世話になることになりました。親方以外の先輩は1人、私が入ることで3人という本当に小さな職場でした。

私は集合時間の朝6:30から夜19時頃に解散するまで自分なりに必死に仕事をしました。早く仕事を覚えたい!1件の現場を自分で任されるようになりたい!そして3人という小さな職場に私の後輩も増やしていきもっと会社のように大きくしたい!そんなことを考えながら頑張っていたように記憶しています。
結果的には1年半を経たずして退職することになります。そして累計2年半に満たない外壁サイディング職人としての経験で独立チャレンジする事になるのですが、前向きに努力を続けていた私がその親方の元を離れる事になった原因は2つありました。

1つはたまに親方が立飲み酒場などに連れて行ってくれた時にいろいろ話をするのですが、そういう時に私はいつも、自分がある程度仕事を覚えたら人を入れてほしいです!とか、ひとつの工事会社からの仕事にしがみつかず、もっといろんな展開をした方が会社として成長する可能性がありそうな気がします!とか、人が増えて来たら僕がその新人を連れてたくさん現場を収めてきます!とか、今思うと若々しさは否めませんが成長意欲をガンガン出して親方に話していたのですが、いつも返事は、子方であるてっちゃん(私)はそんな事考えんでいい。そればかりでした。

私はその事に不満というか、なぜ親方は「よし!てっちゃん!お前がそう言って頑張るなら俺も頑張っていくからどんどん頑張れ!」など言ってくれないのか理解できないでいました。そんなある時、親方のことをよく知る他の職人さんに親方が言っていた事としてこんな事を聞きました。「お前のとこの親方は自分で月に80万円稼ぎ続ける事を目標にやっていて、子方に求める事もその為に働いてくれるだけでいいと思っている。てっちゃんにあ~だこ~だ会社を大きくしましょう!とか言われたいわけではなく、お前に支払う給料以上に現場を収めて欲しいだけだと思うよ。」私はなんとなくショックでした。

その頃は給料が安く、今考えると40~50万円は最低でも稼げるくらい現場を進めれるレベルだったのに、外注扱いの日給計算で多くて月23万円、連休や悪天候が続いた月などは16.17万円という月もありました。勿論、社会保険や厚生年金、源泉などもありませんでした。他で働く職人さんよりも安めであることは知っていましたが、ここの職場を大きくしよう!と燃えていた私は「隣の芝生は青く見えるものだ」と我慢していました。しかし、その親方の知人の話を聞いてその炎が消えてしまったのです。

もう1つはそんな事があって心の炎は消えたものの、自分が辞めれば困るだろうな~など考えたり、だからって他に何かしたい!というのも無かったので、半分迷いながら仕事を続けていました。そんなある給料日。個人親方だったので会社事務所というものはありませんでしたので、いつも親方が住むマンションで集合し現場に行っていました。給料日はそのマンションの駐車場に帰ってきてから親方が一度自宅に戻り、おそらく奥さんが準備していた給料を持って下りてきて渡してくれるというのが慣習でした。

その日親方は夜に友人とだったか約束があるという事で急いでいるという事でしたが、私はいつもの様に駐車場で待っていました。そしたら小学校4年生くらいの親方の娘さんが下りてきて「はい。ご苦労さま。」と私に片手で無造作に給料袋を手渡しました。え!?私はあっけにとられ「お父さんは?」と尋ねると「お風呂に入ってる」という返事でした。「・・・・・」私は何故か悔しいというか、自尊心を踏みにじられたような気持ちになりました。たった5分下りてきて「ごくろうさん」と給料を渡してやらないと、という気持ちも親方は私に持ってくれていないんだって。

そして私はこの親方の元を離れようと決めました。現場ではいろいろと教わり、その後、幾多の現場を乗り越えられたのも親方のおかげと何度も思い出したことがあります。そういった意味では感謝してもしきれません。しかし自分の生涯をかけたい理想の親方ではありませんでした。そして自分が尽くしたい理想の親方がなかなかいないのであれば自分が親方になろう!そう思った瞬間でもありました。そして求人広告で外壁サイディング職人を募集している工事会社を見つけ、雨で仕事が休みの日に面談しに行き、今の状況や自分の仕事レベルについて説明するとあっさり受注をいただく事ができました。

ここの社長にも大変お世話になったのでまた書きたいと思いますが、その翌月私の銀行口座に振り込まれた仕事の報酬は67万円でした。私は初めて自分の努力が直接成果となる喜びを感じました。こうしてリュウソークリエイトの全身である「シロタ建装」が誕生したわけでございます。

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自分


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